“To be or not to be”
医療法人慈心会 井出眼科病院
理事長、院長 井出 醇
私は昭和7年に十日町の大沼産婦人科で生まれた。今の靖彦先生の先々代の音彦先生の時代である。当時、私の父は東京から済生館眼科に赴任してきていた。
それから30有余年、私の娘たちは三人とも靖彦先生の先代の雅彦先生にお世話になった。当時、私も済生館眼科に勤めていた。奇遇である。
それから更に30年近くになるが、娘たちの誰かが済生館眼科に来てくれれば「三代済生館眼科に奉職」となって、「これも一つの記録だろう」と密かに期待していたが、長女は未だアメリカから帰らず、次女は勝手に東京警察病院眼科に就職、残る三女も理系院生と一緒になって、私の野望もついえた。
ところで父は終戦後、新庄市で開業、私は昭和48年1月に義父とともに北山形に内科眼科の沼澤井出病院を開設した。「長くもっても2,3年」と噂する者がいたと後で聞いたが、運良く(?)その年にオイルショックが起こり、以後インフレ基調で何とか持ち堪えたのはご存知の通り。55年頃から10年間程はバブル期に入ったこともあって2回の増築、さらに眼科だけ山形駅前に分離、平成2年には眼科病院と成り上がった。
私のところは26床の眼科の単科病院である。
病院といってもハードの面では、一流ホテルと見まがうような大病院には足元にも及ばない。一方、この頃では診療所と云えども3、4階建てのビルなんていうのも多いからこちらもかなわない位だ。大体、手紙が井出眼科医院で来るから一般的な認識もそんなものであろう。2次医療を担っていると思っているのは本人だけである。
今や病診連携の時代である。私の所にも大病院の連携室長が院長、事務長と一緒に挨拶に来られる。そのたび密かにこれは診療体系の系列化でないかと思う。私の所も早くどこぞの大病院の尾っぽにつかまらないと、後になっては「今さら何だ」といわれそうだと心配しながらも、何とか孤高を保っている。
それではソフトの面はどうか。市医師会の医業経営委員会では以前からアンケート調査を行っている。曰く、レセコンは使っているか、法人化しているか、医療器具の購入にリースを利用しているか、医薬分業か、土地、建物は借りているかたちか、給食は委託か等々、すべて設立当初からyesであった。これ以上何が出来る?職員教育はやっているか、yes、病院便りは発行しているか、yes、ホームページを立ち上げPRに努めているか、yes、クリニカルパスの準備は出来ているか、yes、ヒヤリハット委員会や感染対策委員会を開き事故防止に努めているか、看護師、ORTに学会発表を奨励しているか、往診に行っているか、yes、yes、yes、いいと云われれば何でもやるという感じである。それでも26床では病院経営も大変である。
そんなに大変なのに何故病院にこだわっているのか。こだわっている訳でもない。再び診療所に戻るのも選択肢かも知れない。
しかし病院には意外といい所がある。県からたくさんの通達が来て情報が手に入りやすい。毎年の医療監視もわずらわしいと思うのは考えようで、これなど無料の病院診断をしてもらっているのと同じで、機能評価機構やISOの認定などを受けようとしたこともあるが、診断料と更新料の余りの高さに二の足を踏んでしまった。またSOAPもPOSも使用していなかった19床の診療所時代に比べると、看護レベルが向上しているのは歴然としているし、目安箱の投書を見ても、うちの病棟は非常によくやっているのが判る。
父のあとを継いだ新庄分院(無床)を含めると常勤医師が5人いるが、全員そろってワイワイやっている時など最高に楽しい。私も現役時代は何とか診療レベルを保持して、優秀な次期院長にバトンタッチしたいと考えている。
この原稿は山形市医師会の依頼で市医師会の会報に載せるために書いたものですが、私が、山形市で開業して現在に至るまでの経過、現在の心境などを書きましたのでここに転載させていただきました。(市医師会の方にはお断りしています)